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病とともに歩む 道南の蝦夷富士(羊蹄山)とニセコに囲まれた倶知安と云う小さな町で幼年期と少 年期を過ごしました。父の仕事の関係で埼玉県の寄居町から北海道の札幌に移り、 それから倶知安に移り住みました。私の記憶は倶知安から始まりました。 四季のはっきりした町でした。特に冬は雪深く1階部分は雪に埋もれてしまってい ました。したがってスキ−も盛んなところでしたが、私は運動はまったくダメでし た。その頃は小児喘息と云われ、走るとすぐ息苦しくなるので、「走ってはダメ」 と云われていました。 記憶にはっきり残っているのは、小学校の入学式の日で、4月と云うのに、すごい 吹雪になり、先に進むのが困難なほどの状況でした。上級生に支えられて、やっと 登校出来ました。担任は、松村とわ先生でした。 学校はよく休んでいました。夜ねると咳が出て、息をするとヒュ−ヒュ−と音がし て、朝まで眠れないときがあり、母親に胸や背中をさすってもらっていました。 その頃、草野球がはやっていましたが、走ることが多いので出来ませんでした。い つの間にか、近くの川や沼で魚釣りを楽しんだり、将棋を指して楽しむことを覚え ました。 小学校高学年、中学生になっても喘息はよくならず、ひどくなる一方でした。休ん ではいましたが、成績は良い方でした。特に数学、理科が得意でした。 喘息の薬はその頃はあまりなく、発作時はボスミンかレスタミンの注射でした。ボ スミンは注射後、心臓がドキドキして顔は青くなりました。レスタミンはとても眠 くなりました。 中学2年ころには、病院に入院して、学校に通うようになっていました。朝起きると 息苦しくなっていて、注射をしてもらって、楽になってから学校へ行くような状態 でした。運動も遊ぶことも出来なかったので、勉強ばかりしていました。そのころ ついたあだなは「皇太子殿下」でした。どんなときでも走らないでゆっくり歩いて いたせいでしょう。 病院の先生から転地治療を勧められて、中学3年生の夏休みに、埼玉県の利根川の ほとりの大越村におばさんがいたので、お世話になることになりました。 土地が変わって喘息も好転して夢のような日々が続きました。大越中学校では担任 は荻野先生でした。転校生の挨拶で、北海道の倶知安から来ましたと云うことで、 ついたあだなは、「倶知安(くっちゃん)」でした。それと云うのもクラスの半数 ほどが野中性でした。 3か月も過ぎたころ喘息の発作が起きてきました。近くの橋本医院の先生に往診に 来てもらって治療してもらいました。先生も喘息持ちでした。 そんな状態でしたが、不動岡高校を受験して合格しました。みんなは自転車通学で したが私はバスで通学しました。1年間は何とか通学出来ましたが、喘息が悪化し て休学してしまいました。こんな状態でしたので、家を建て北海道から母に来て貰 い世話してもらいました。両親と3人の妹には大変迷惑をかけてしまいました。 転地治療も効果がなくなったので、また、北海道の倶知安に戻りました。倶知安高 校2年に転入しました。この頃が喘息が一番ひどい時で再休学して5年かけて高校を 卒業しました。 昭和32年 青森県弘前市弘前大学文理学部理学科(数学)へ入学しました。この 頃になると喘息の薬も新しいものが出てきて、私にはネオフィリンという薬がよく 効きました。無事4年間で卒業して、東京の日大三高に就職しました。担任もやり、 数学を教えていました。 昭和39年に結婚して、昭和43年に長男が誕生しました。コンピュ−タに出会っ たのもこの頃です。ある講習会でIBM360というコンピュ−タを使いその魅力 の虜になりました。昭和44年 8年間勤めた日大三高を退職して富士通ファコム (株)に入社しました。 誕生した長男は脳性麻痺で歩けるようにはならないでしょうと診断されました。こ のときが人生で一番つらい瞬間でした。幼児期は入退院を繰り返していましたが、 小学校に入学してころから、丈夫になり安定してきました。 歩けません。お座りもできません。寝返りがやっと出来る状態です。 言葉は、「はい」と「ばかやろう」、「うまい」が云えます。こちらが云っている ことは、大体理解しているようです。音楽、競馬、絵本が大好きです。何で競馬が 好きなのかはわかりません。長男は小学校、中学校、高校を無事卒業して現在も 通っているまつのみ作業所に通い始めました。 私は、富士通ファコム鰍ノおいて、プログラマ−、SE、管理職を経て部長職を最 後に定年退職しました。超大型コンピュ−タ、大型コンピュ−タ、中型コンピュ− タを使い言語はアセンブラで通しました。最後はパソコンで情報処理教育のソフト を開発して販売にも取組ました。 平成5年 船橋ビジネス専門学校へ再就職しました。コンピュ−タ言語 アセンブラ、 BASIC言語、C言語を教えていました。ここでインタ−ネットと本格的に出会 いました。これで、リタイア後も付き合っていけるなと思いました。 健康診断で胆石があることが指摘されていましたが、痛くなるのが1年に1回程で したので、そのままにしておいたら、段々痛み出す回数が多くなり、手術の前には 毎日のように痛くなり、手術することにしました。平成9年の春、江東病院で胆石 の手術を受けました。胆のうが肝臓に癒着していて、胆のうは取ってしまいました。 痛みは完治しました。もっと嬉しかったのは、術後喘息の発作が出なくなったこと です。60年間苦しんできた持病が治ってしまったことです。 平成10年 船橋ビジネス専門学校を退職して、年金生活に入りました。喘息の予防 のため喘息の薬は貰っています。飲み薬としてテオド−ル、アコレ−ト、経皮吸収 型・気管支拡張剤 ホクナリンテ−プ、定量噴霧式気管支拡張剤 サルタノ−ルです。 秋に体調を崩すときがありますが、この10年ほど喘息では苦しんでいません。 毎日が日曜日のようなので、ホームページの作成をするためHTMLの勉強を始め ました。そうして、1年後に自分のホームページを作成し始めました。その後、友 人の会社のホームページも作りました。現在は6個のホームページを作っています。 平成16年の夏、妻が自己免疫性肝炎のため、1か月ほど入院しました。幸いプレ ドニンが効いて、退院が出来て普通の生活が出来るように回復しました。 平成19年の秋、長男がくも膜下出血になり、東京女子医大病院で開頭手術をして 一命は取りとめました。真夜中に意識不明になり救急車で東京女子医大病院に搬送 されて、すぐCT検査をして、くも膜下出血と判明しました。生存率は20%程度 とのことでした。手術はその日の夕方から行われ、終わったのは日も変わった2時 頃でした。手術は成功しました。ICUに3週間、一般病棟に1週間いて退院しまし た。半年間家で休養して、暖かくなった5月からまつのみ作業所に通所し始めまし た。後遺症もそれほどありませんでした。 障害者通所施設 親と子作業所でパソコンの指導もしています。親と子作業所のホー ムページも作りました。この作業所では春と秋2泊3日のバスによる研修旅行があ ります。最近では、諏訪湖畔に泊り、善光寺の御開帳を見てきました。 小さいとき始めた将棋はアマチュア六段までになりました。現在は将棋ソフトと毎 日対戦しています。韓国ドラマにもはまっていて妻と2人で見ています。 現在、私は72歳、妻は68歳、長男は40歳になりました。と云っても長男は3 〜4歳にしか見えません。まるで天使です。おじさんになりません。 長男は8時45分車椅子で出かけて行き、帰りは15時です。喜んでバス通所して います。この時間の間に、私達はあまり遠くには行けないので、よく上野公園の中 にある美術館に行きます。最近では、東京国立博物館 平成館に阿修羅展を見てき ました。病弱だった私が、息子の介護の方に回っています。 もう年ですので息子をどこかの施設に預けることも考えていますが、1日も長く側 に置いておきたい気持ちです。 ここまで歩んできました。これからも「歩む」だけです。 |
